2026年8月26日、米国のスクリプス研究所は新たなプロジェクトを発表した。同研究所は、米国国立科学財団(NSF)から1,950万ドル、4年間の助成を受け、UCLAおよびAI化学分野の企業であるSunthetics社(https://www.sunthetics.io/)と連携し、自律型化学ラボ「Chemistry Node」の構築を進める。注目すべきなのは、単にロボットを導入して実験を自動化することではない。目指しているのは、研究者のアイデアを実行可能な実験へ変換し、実験、分析、次の実験の提案までを一つのサイクルとして実行し、反応の発見と最適化を促進することである。そして、この考え方は決して遠い未来の話ではなく、既に実践している企業も存在する。
私たちのパートナー企業であるChemLexは、まさに実践している企業の1つであり、現在AIとロボティクスを組み合わせた低分子化合物の研究開発サービスを展開している。本ブログでは、スクリプス研究所の新たな取り組みとChemLexの実践を通して、いま化学・創薬研究の現場で何が変わりつつあるのかを見ていきたい。
今回のスクリプス研究所のプロジェクトを理解するうえで重要なのは、「自動化された実験室」をつくることだけが目的ではないという点だ。スクリプス研究所が構築を目指しているChemistry Nodeは、既存の自動合成設備を基盤として、AI、ロボティクス、分析機器、データ基盤などを統合し、研究者が遠隔から利用できる自律型の化学研究環境を構築するものだ。プロジェクトにはスクリプス研究所、UCLA、Suntheticsが参画し、それぞれ実験設計、データ品質管理、AIおよびユーザーインターフェースなどの領域を担う。想定される研究プロセスは、研究目的やアイデアを入力し、AIが実行可能な実験計画・プロトコルへ変換した後、ロボットが実験を実行する。分析装置から得られたデータをAIが解析し、その結果を次の実験条件の設計へ反映する。このサイクルを繰り返すことで、実験結果を次の実験へ連続的にフィードバックしていく。
Fig. 1 自律型ラボにおけるクローズドループ型研究開発の流れ(出典:A-Lab、参考論文1)
Fig. 2 ロボットによるサンプル移送の様子(出典:A-Lab、参考論文1) 従来の化学研究では、研究者自身が実験条件を設定し、実験を行い、結果を確認したうえで次の条件を検討するというプロセスが一般的だった。しかし、触媒、溶媒、温度、濃度、反応時間など、多数のパラメータが相互に影響する反応では、条件探索そのものに多くの時間を要する。特に複数の触媒サイクルが関係する反応では、一つの条件だけを変更するのではなく、複数のパラメータを組み合わせながら最適な条件を探索する必要がある。スクリプス研究所が対象としているのも、こうした従来の手作業による最適化に時間を要する有機低分子化合物の合成反応だ。
AIによる実験設計と自動化された実験を組み合わせることで、より多くの条件を短期間で検証し、その結果を次の実験へ反映することが可能になる。
スクリプス研究所のChemistry Nodeは、単独の研究施設として見るだけでは、その意味を十分に捉えることができない。その背景には、NSFが推進するProgrammable Cloud Laboratory(PCL)という考え方がある。PCLは、研究者が遠隔から実験設備へアクセスし、あらかじめ定義された実験ワークフローを実行できる研究環境を構築する取り組みだ。NSFのプログラムでは、個々の装置を自動化するだけではなく、異なる装置やソフトウェアを接続するためのインターフェース、実験プロトコル、メタデータ、研究データなどの標準化も重要な要素とされている。
つまり、目指しているのは単に「ロボットが動く研究室」ではない。研究室そのものを、遠隔から利用可能なデジタル研究インフラへ変えていくことである。この発想が普及すれば、研究者は必ずしも高度な自動化設備を自ら保有する必要がなくなる。必要な実験を遠隔から実行し、得られたデータを自身の研究へ活用するという研究スタイルも現実味を帯びてくる。こうした環境が整えば、大学、スタートアップ、教育機関など、これまで高度な研究設備へのアクセスが限られていた組織にも、新たな研究機会が生まれる可能性がある。
自律型ラボについて語るとき、「1日に何件の実験を実行できるか」というスループットに注目が集まりやすい。しかし、本当の価値はそれだけではない。より重要なのは、実験データを体系的に蓄積し、そのデータを次の実験へ連続的に反映できることだ。
研究者が手作業で実験を行う場合、実験条件や操作履歴、分析結果などの記録方法には、どうしても個人差が生じる。一方、自動化されたシステムでは、実験条件、操作履歴、分析結果などを一定の形式で記録しやすい。さらに、成功した実験だけではなく、期待した結果が得られなかった実験についても、条件と結果を紐づけて蓄積できる。これはAIを活用した研究開発において非常に重要だ。
AIにとって価値のあるデータとは、単に「成功した反応」のデータだけではない。どの条件でどのような結果が得られたのか、また、どの条件では期待した結果が得られなかったのか、こうした実験履歴が大量かつ画一的な形式で蓄積されることで、AIによる予測や実験計画の精度向上につながる可能性がある。
Fig. 3 ChemLexのAI×ロボティクス研究開発プラットフォーム ここで注目したいのが、私たちのパートナー企業であるChemLexだ。
ChemLexは、AIとロボティクスを組み合わせた低分子化合物の研究開発プラットフォームを展開している。その特徴は、AIによる「DRY LAB」と、ロボットによる「WET LAB」を組み合わせたクローズドループ型の研究開発システムにある。DRY LABでは、AIを活用して合成ルートや反応条件を設計するほか、分析スペクトルの解析、精製条件の検討などを行う。一方、WET LABでは、合成、分析、後処理、精製、濃縮など、一連の実験工程を自動で行っている。両者を連携させることで、AIが実験を設計し、ロボットが実験を実行し、得られたデータをAIが解析し、その結果を次の実験条件へ反映するというサイクルを連続的に回すことができる。
ChemLexは、WET LABで1日1,000件を近くの反応を実行できる自動化プラットフォームを公開している。また、反応条件最適化においては、1,500件を超える条件を短期間でスクリーニングできる能力を示している。ここで重要なのは、「1,000件以上の実験ができる」という数字そのものではない。人間の研究者が一つひとつ条件を設定して実験する場合、時間や人的リソースの制約から、検証できる条件数には限界がある。自動化された実験環境では、この制約を大幅に緩和できる。
その結果、これまで「試してみたいが、すべてを検証するには時間がかかりすぎる」と考えられていた条件を、より短期間で比較・評価できるようになる。これは、反応条件最適化における研究開発の進め方そのものを大きく変える可能性がある。
この違いは非常に大きい。例えば、100種類の条件をロボットが実行できたとしても、その結果を研究者が一つずつ確認し、次の100条件を手作業で設計しているのであれば、研究プロセス全体が効率化されたとは言いにくい。重要なのは、「実験を自動化する」ことではなく、「実験から得られた知見を次の実験へつなげる」ことにある。スクリプス研究所がChemistry Nodeで目指しているのも、そしてChemLexが取り組んでいるのも、このクローズドループ型の研究開発である。
もちろん、すべての化学研究がすぐに自律化されるわけではない。異なるメーカーの装置をどのように接続するのか、実験データをどのように標準化するのか、AIが設計した実験プロトコルをどこまで自動で実行してよいのか、危険性のある試薬を扱う場合はどのような安全管理が必要なのか、さらに、AIが提案した結果を研究者がどのように評価し、最終的な研究上の意思決定につなげるのかなど、解決すべき課題は非常に多い。
それでも、スクリプス研究所の今回のプロジェクトと、ChemLexの実際の取り組みから見えてくる方向性は明確だ。化学研究は、これまでの「人が一つずつ実験を行う」スタイルから、「人が研究上の問いを設定し、AIとロボットが大量の実験を実行し、その結果を次の実験へ反映する」スタイルへ、少しずつ変化し始めている。これは単なる省人化ではない。研究者の経験や知識をデータとして蓄積し、実験プロセスを再現可能な形に変換する。そして、そのデータをAIが活用し、新しい実験を設計する。このサイクルが高速化されれば、創薬研究における条件探索や合成ルート開発の進め方そのものが変わる可能性がある。
「無人ラボ」という言葉から、人間のいない研究室を想像するかもしれない。しかし、ここでいう自律型ラボの本質は、人間を研究から排除することではない。むしろ、研究者を「実験操作」から解放し、より本質的な科学的問いに集中できる環境をつくることにある。
研究者が、何を明らかにしたいのか、何を作りたいのかという問いを設定し、AIがその問いに対して実行すべき実験を設計する。ロボットが実験を行い、得られたデータをAIが解析する。そして、その結果をもとに次の実験が設計される。このサイクルが繰り返されることで、研究者は一つひとつの実験操作ではなく、より高度な仮説構築や研究戦略に時間を使えるようになる。私たちアクセラレート・バイオも、AIと自動化技術の進展を、単なる研究設備の高度化ではなく、創薬研究そのもののワークフローを変革する技術として捉えている。
スクリプス研究所の1,950万ドルのプロジェクトは、自律型研究環境が学術研究における新たな研究インフラとして構築され始めていることを示している。一方、ChemLexの取り組みは、同じ方向性の技術が、すでに産業界の研究開発サービスとして実装されている一例といえる。「人がすべての実験を行う研究室」から、「人が研究の問いを設定し、AIとロボットが実験を進める研究室」へ、創薬研究の次のステージはこうした変化の積み重ねによって形づくられていくのかもしれない。